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夕方Dフィットネスの空き地で粘土はやらないで家の近所で折ってきたブーゲンビリアの花の小枝を粘土に突き刺して水彩でスケッチした。ビン等に入れて花を描くのは不便だから塗らした粘土に突き刺すことがよくある。

ブーゲンビリアの花びらは貝のようにたった二枚である。花びらは薄く硫酸紙のように透けている。たった二枚の花びらなのに描くと複雑である。二時間半かかった。これは「ボレロ」の女性が手に持っている花のための習作である。

家に戻って飲み屋で考えていた。今後人物像は等身大の粘土の像を作ってそれに衣服を着せて描こうかなと。非常に手間取るが衣装は実際のものを見て描く方がレアリティーをもつ。いまどきの人は写真を使うがぼくは頑固に絵に写真を使わない。それは美術史の中で写真などなかった時代のほうが優れたものを残しているからである。

写真と言うのはレンズから入った光を乾板に映したもので、ちょうど人間の目が瞳孔から入った光を網膜と言うスクリーンに映したのと同じである。ここからが問題で、網膜に映った像は脳神経で取捨選択され、変更される。これが見るということであり、写真はそうではない。写真にそっくりな絵を描くということは人間の能動的な選択以前のものを写しとるので何の価値もない。このことはもっと深く考えているので後日に展開したい